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公開 | チバタカコ

「箱館高田屋嘉兵衛資料館」、2019年は高田屋嘉兵衛生誕250年

箱館高田屋嘉兵衛資料館

 
高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)は、箱館(現函館)を拠点に北前船で交易をし、北方領土の開拓をするなどして巨万の富を築き、函館の基礎をつくったと言われています。2019年は、高田屋嘉兵衛生誕250年の節目の年です。

 

目次

・高田屋嘉兵衛って、だれ?
 ー貧しい農家の息子から船持船頭へ~実力で頂点へ
 ー北前船で財を成し、函館の基礎をつくる~まるで商社
 ー国後島~択捉島間の航路を開拓、日ロ間の国際問題を解決~国際人TAKADAYA
・函館ベイエリアにある、箱館高田屋嘉兵衛資料館
・辰悦丸の復元模型や、当時の資料を展示
・箱館の高田屋、その後はどうなった?
・おまけ~日本最古のストーブ


 

高田屋嘉兵衛って、だれ?

高田屋嘉兵衛は、司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」のモデルになった人物です。波乱万丈で骨太な人生を送っていますが、知らない人のためにざっくり高田屋嘉兵衛物語を。
 
●貧しい農家の息子から船持船頭へ~実力で頂点へ
高田屋嘉兵衛は、1769年、淡路島の貧しい農家の長男として生まれました。徳川10代将軍家治、老中田沼意次の時代です。
ちなみに同い年の有名人は、ナポレオン。
 
幼いころから船が好きで、22歳の時に兵庫(神戸)に出た嘉兵衛は、水夫として働きます。
そこでめきめきと頭角を現し、28歳で「辰悦丸(しんえつまる)」という船を持ち、ついに船持船頭になり「高田屋」の屋号を掲げます。辰悦丸は、千五百石積み(約230トン)で当時としては最も大きな船だったそうです。

ちなみに、ガリンコ号Ⅱが150トンなので、なんとなくイメージできますか?
 
●北前船で財を成し、函館の基礎をつくる~まるで商社
その頃、蝦夷(北海道)の拠点といえば松前や江差でしたが、嘉兵衛は「箱館はいい港になる」と目を付け、箱館を拠点に商売を始めます。

関西(神戸、大阪)で酒、塩、木綿などを仕入れて酒田(山形県酒田市)に運び、そこで米を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布などを仕入れて、再び関西へという北前船の事業で巨万の富を得た嘉兵衛は、そのお金をまちづくりに注ぎます。
 
港を整備し、造船所(船作業場)をつくり、道路の改修、植林や開墾、井戸掘りなど箱館の基盤をつくり上げました。1806年、箱館大火で町の大半が焼失し、自分の店も類焼した時は、私財を投じて被災者の救済にあたりました。
 

函館開港100年を記念してつくられた高田屋嘉兵衛の銅像▲1958(昭和33)年、函館開港100年を記念してつくられた高田屋嘉兵衛の銅像。かつて嘉兵衛の屋敷があった宝来町、護国神社坂にあります
 
 
●国後島~択捉島間の航路を開拓、日ロ間の国際問題を解決~国際人TAKADAYA
1798年、31歳の時に幕府の蝦夷地御用御雇に抜擢された嘉兵衛は、択捉(エトロフ)島開拓の任に就いていた幕臣・近藤重蔵に依頼され、択捉島海路試乗の船頭として、国後(クナシリ)島~択捉島間の航路を開拓しました。

1801年には、その功績を認められて幕府から「蝦夷地定雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許されます。
 

高田屋嘉兵衛の銅像▲銅像は、ゴローニン事件で幕府の代理人としてロシア軍艦に乗り込んだ際の正装、帯刀した姿。意を決した表情は、その時の緊張感が伝わってくるようです
 

1804年、ロシアが日本との通商を求めて長崎へ来航しますが、幕府はこれを拒否。するとロシアは武力行使でサハリンや択捉を襲撃。
これがきっかけで日ロ間に緊張が高まる中、千島列島を調査中のロシア艦ディアナ号のゴローニン艦長が国後島で拿捕され、松前に移送、拘留されました。
 
副艦長のリコルドらはいったん帰国しますが、ゴローニン艦長救出のためあれこれ対策をしていた時に、たまたま択捉から箱館に向かう途中の高田屋嘉兵衛の船を捕らえてカムチャッカへ連行。
 
しかし、8ヶ月に及ぶ抑留生活の中でも嘉兵衛は少しも臆することがなく、ロシア語を学び、リコルドとの信頼関係をつくりあげました。
そして、両国の誤解をなくしてゴローニンが釈放されるよう松前藩と折衝するという大役を果たし、日ロ間の国際問題を解決しました。
この時、嘉兵衛45歳。
 
この抑留生活で健康を害した嘉兵衛は、50歳の時に弟の金兵衛に事業を任せて、生まれ故郷である淡路に隠退します。そこでもまちづくりに多額の寄付をするなど尽力し、1827年4月、59歳で波乱に満ちた生涯を閉じました。
 
…と、駆け足で嘉兵衛の一生をまとめましたが、とにかくすごい人です。

今の時代にもし嘉兵衛がいたら、日本経済団体連合会、日本商工会議所、経済同友会などのいずれか、いやすべての会長になっていてもおかしくないでしょう。アメリカの経済誌「フォーブス」に間違いなく上位でランクインするくらいの人だと思います。
 
有言実行で常に時代の先を見据え、その視点はグローバル。その頃蝦夷にいたアイヌ人もロシア人も分け隔てなく接し、「みな、人ぞ」が口癖だったそうです。

 

函館ベイエリアにある、箱館高田屋嘉兵衛資料館

その高田屋嘉兵衛にまつわる資料などを展示しているのが、函館ベイエリアにある「箱館高田屋嘉兵衛資料館」です。
 

箱館ベイエリアにある箱館高田屋嘉兵衛資料館外観▲箱館高田屋嘉兵衛資料館。西部地区の有名な二十間坂を下りてきて、金森洋物館とBAYはこだての間
 

高田屋の屋号「ヤマタカ」▲高田屋の屋号「ヤマタカ」が目印。建物を見るだけでも、なかなか味わい深い

 
資料館は、海産物倉庫として使用されていた建物を転用しています。向かって左の1号館は1903(明治36)年築造の石造り。北前船のバラスト(船体を安定させるために搭載していた重石)として使用した越前石が使われています。右側の2号館は、1923(大正12)年築造の鉄筋コンクリート造。


高田屋嘉兵衛資料館の天井トラス▲天井の梁のトラス構造。2011(平成23)年、あの有名なガイドブックの観光格付けで1つ星を獲得。建築好きな人は、ここ必見です
 

函館の基礎をつくった人物の資料館ですが、ここは私設。市内の(株)池見石油店のオーナーが、「菜の花の沖」を読み感動し、もっとたくさんの人たちに嘉兵衛の業績を伝えたいと、1986(昭和61)年に開設しました。

同年、北前船・辰悦丸が100年ぶりに復元され、5月に淡路島を出港、北前船航路を4日間かけて北上し、6月14日江差、6月22日に函館港に入港したそうです。

 

辰悦丸の復元模型や、当時の資料を展示

1号館と2号館は、中でつながっています。1号館には、辰悦丸の復元模型や当時の資料が展示されています。
 

高田屋嘉兵衛資料館1号館内観▲1号館
 
 
辰悦丸の縮尺模型▲辰悦丸の縮尺模型
 

2号館には、商売で使った台帳や手紙などが展示されています。
 

大坂の真阪という女性が書いた恋文▲大坂の真阪という女性が書いた恋文も
 

展示物は、実際に高田屋嘉兵衛が使用していたもの…というわけではありません。が、嘉兵衛の子孫や高田屋で働いていた人の子孫などの関係者が大事に持っていたものを寄贈してもらったそうです。
 

箱館高田屋嘉兵衛資料館館長の酒井賢佑さん▲箱館高田屋嘉兵衛資料館館長の酒井賢佑さん。もし嘉兵衛と話をすることができるなら、ゴローニン事件の時の話を聞いてみたいそうです

 
「嘉兵衛はとにかくスケールが大きい。港や造船所をつくり、今の函館の基礎をつくった人です。彼がいなければ、鎖国終わりに函館が開港することはなかったでしょう」と話してくれたのは、箱館高田屋嘉兵衛資料館館長の酒井賢佑さん。
 
「今みたいな物流がない時代に、嘉兵衛は北海道の昆布を持って上方で商売をし、その昆布は下関を通って、薩摩まで運ばれました。薩摩は、北海道の昆布を使って琉球と密貿易をして、そこで儲けたお金で外国から大砲や鉄砲を購入した。それがやがて、戊辰戦争へ結びつくことを考えると、北前船が歴史に果たした影響がどれほど大きいかがわかるでしょ」。
 
酒井館長によると、司馬遼太郎さんが講演会で、江戸時代を通してみても、高田屋嘉兵衛ほどの人物はいないと話したそうです。
さらに、高知の桂浜公園内にある坂本龍馬像、皇居にある楠木正成公像、そして函館にある高田屋嘉兵衛像を「日本三大銅像」とするべきだと語ったとか。
 
函館の夜景は、世界三大夜景のひとつ。そこに、日本三大銅像がもう一つ増えるのも、いいかもしれませんね。
 
 

箱館の高田屋、その後はどうなった?

函館のまちづくりに莫大な私財を投じた高田屋一族ですが、嘉兵衛引退後どうなったか、気になりますよね?
 
実は高田屋は、嘉兵衛の後を継いだ弟・金兵衛の時代に、箱館、兵庫、大阪、江戸にあった各支店の財産をすべて幕府に没収されたそうです。
 
闕所(けっしょ)には、「有金千八百弐拾七万八千五両」「大船千石以上四百五十艇隻」などとあります。闕所とは、財産没収の刑罰のこと。
 
これが現在の金額に換算するといくらくらいなのか、あくまでも推測ですが、億ではなく「兆」のケタになるそうです。
 

高田屋金兵衛闕所の次第▲「高田屋金兵衛闕所の次第」。これは、松浦武四郎の「蝦夷日誌」の引用
 

没収の理由は、ロシア船と密貿易をしたという嫌疑をかけられたこと。松前藩の取り調べを受け、さらに江戸まで呼び出され幕府の取り調べを受け、出された判決が有罪。
 
酒井館長は、
「これは私の推測ですが、高田屋があまりにも儲けすぎたので、やっかみをかったのではないかと思います。それと、嘉兵衛は松前藩や幕府、ロシア相手に、時には袖の下を渡したりしながら上手に付き合っていましたが、金兵衛はどうもそういう商売付き合いが下手だったのではないか」
と話してくれました。
 
ドラマチックに江戸末期を生き抜いた高田屋嘉兵衛は、2019年が生誕250年です。資料館では、特別なイベントなどはないそうですが、生誕250年のお土産になる日本酒を販売する予定だとか。
 
箱館高田屋嘉兵衛資料館は、冬季は休館していますが、今シーズンは2019年3月19日(火)からオープンします。

 

おまけ:日本最古のストーブがある!

高田屋嘉兵衛とは関係ないのですが、2号館には日本最古のストーブの復元が展示されています。


高田屋嘉兵衛資料館にある日本最古のストーブ▲毎年11月25日には「火入」式を行っているそうです。使えるんですよ、これ


これは、1856年に五稜郭を設計した武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)が、箱館港に入港中のイギリス船にあったストーブを参考に、見よう見真似でつくったものだそうです。

 

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