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公開 | 木村健太郎

五稜郭だけじゃなく四稜郭も?箱館戦争の隠れたスポット紹介

明治元(1868)年10月から同2(1869)年5月18日まで道南地域一帯で展開された箱館戦争。明治2(1869)年5月11日からの新政府軍箱館総攻撃から、箱館やその周辺町村で激烈な戦闘が繰り広げられました。その爪痕は実は現在でも函館の至るところに残っています。今回は函館市内に残る箱館戦争ゆかりの隠れたスポットを紹介します!
 
 
▲四稜郭を空中から撮影したもの(函館市教育委員会提供)
 
 

目次

・五稜郭とその鎮守府を防備した四稜郭
・五稜郭の鬼門を守る守護神・権現台場(旧東照宮)
・当時の扁額や手水石が残る北海道東照宮
・降伏調印式が行われた亀田八幡宮
・新政府軍兵士が眠る護国神社


 

五稜郭と東照宮を防備した四稜郭 

五稜郭といえば、誰しも知る函館の観光地ですが、実は四稜郭もあることをご存知でしたか?
 
箱館戦争で新政府軍が北海道に上陸した明治2年春、五稜郭を中心とした蝦夷政権の旧幕府脱走軍は各地に防御陣地を築きます。
 
特に、五稜郭の鬼門にある東照宮を守るために、五稜郭北方3kmの箱館を一望できる丘陵に防御陣地を築きました。東西約100m、南北約70mの堡塁で高さ約3mの土塁を巡らし、四隅には砲台を配置します。

その姿は、蝶が羽を広げたように見え、「四稜郭」と呼ばれるようになりました。
 

▲砲座には大砲を運べる坂が築かれています
 
 
地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍の兵士200人と地元民100人で昼夜問わずの突貫工事で数日のうちに建造されたとか。
 
四稜郭は蝦夷政権の陸軍奉行・大鳥圭介の設計と見られ、当時の最新式の西洋式陣地とも目されています。五稜郭は17世紀の西洋式のもので、すでに旧式化していたようです。
 
 
▲雪に覆われた四稜郭も趣があります
 
 
明治2年の5月11日の箱館総攻撃が始まり、四稜郭近隣の赤川村から岡山藩、徳山藩が出陣し四稜郭を攻撃します。松岡四郎次郎率いる四稜郭の守備部隊も防戦しましたが、その後、福山藩も参戦し五稜郭と四稜郭の間にある権現台場が長州藩の攻撃により陥落。

孤立を恐れた守備部隊は五稜郭に撤退しました。双方複数人の死傷者を出し、わずか数時間で四稜郭の役目は終わったのです。
 
 その後の四稜郭はかなり荒廃した状況になりましたが、昭和9(1934)年に国指定史跡となりました。市民の保護と環境整備により原型を保っています。
 

▲整備前の四稜郭。かなり荒れていたことがわかりますね。昔は子供の遊び場になっていたという話も聞けました
 
 
平成2年以降は断続的に整備を進め、土塁の周囲には東屋やベンチが置かれ公園化され、春は桜や芝桜が花を咲かせます。
 
 
▲南側に開口口があり郭内の中に入れます。お散歩にはちょうど良い長閑な場所です
 
 
箱館戦争ゆかりの史跡がしっかり保存されているものは五稜郭以外だと、この四稜郭ぐらいかもしれません。
周囲が林に囲まれ当時の戦闘を偲びながらもホッとできる場所です。

 

五稜郭の鬼門の守護神・旧東照宮(権現台場)

旧東照宮は五稜郭の鬼門(東北)を守る鎮守府として、1864(元治2)年、日光東照宮から分祀された日高地方の様似町の等澍院(とうじゅいん)から分霊し開庁しました。
 
 
▲現在は神山稲荷神社となっている権現台場跡(旧東照宮)。鳥居は戦火を耐え当時のままです
 
 
東照宮はもちろん、江戸幕府初代将軍・徳川家康を神として祀った、徳川家と幕府の神社です。
 
 
▲函館戦争図編より。四稜郭と権現台場の関係がよくわかります
 

この東照宮に脱走軍は権現台場(砲台)を築きました。四稜郭は1.2km北にあり、東照宮を守る台場とも言えます。
 
箱館総攻撃初日に、長州藩などの攻撃により権現台場は占領され、東照宮も焼失します。その後、東照宮は場所を転々とし、数奇な運命を辿ります。
 
この地は当時、亀田村上山という地名でしたが、神様が来たということで「神山」と名付けられ、現在の神山町の由来となっています。現在は神山稲荷神社となっていますが、神社の裏側には戦争当時の土塁の一部が残っているんですよ!
 
 
▲神社裏側にそのまま残る権現台場の土塁

 
現在は住宅街の中にあり、とても分かりにくい場所ではありますが、徳川家や蝦夷政権にとっては、重要な場所だったことは間違いありません
 
 

当時の扁額や手水石がある北海道東照宮

前述した東照宮は箱館戦争で焼失した後、函館市内を転々とし、仮社屋などで祭事を執行ます。函館山山麓の現谷地頭町、青柳町など転々とし明治12(1879)年に宝来町に落ち着きます。旧社地に残っていた狛犬、手水石も明治19(1886)年に同地に移転します。
 
 
▲現在の北海道東照宮です。戦争後は函館各所を転々とし創社場所に近い現在地に落ち着きました
 
 
しかし昭和9年の函館大火により社殿や社務所が焼け、湯川町の湯倉神社に一時避難し、昭和29年の台風15号でも大きな被害を受けるなど苦難の連続を耐え忍びます。平成3(1991)年に四稜郭のさらに3㎞北にある現在の陣川町に移転しました。翌平成4(1992)年に日光東照宮の認証を得て「北海道東照宮」となりました。
 
 
こちらには、旧東照宮(権現台場)時の貴重な手水石、狛犬も当時のまま移転してきています。
手水石には戦争当時の弾痕が残っています。
 
 
▲箱館戦争当時の手水石(お参りの前に手を洗い清める場所)です。年期が入っていますね
 
 
▲わかりにくいかもしれませんが凹んだ部分が手水石に残る箱館戦争で受けた銃弾跡です
 
 
ここでぜひ観て欲しいのは、当時の扁額です。扁額とは社殿や門、鳥居などに飾られている額のこと。
 
 
▲返還された旧東照宮の扁額です。紛失せず残っていたのも奇跡的です!
 
 
東照宮は箱館戦争で焼失した際、戦利品として岡山藩が持ち去っていきました。平成9(1997)年、この扁額が返却され、128年ぶりの東照宮への帰還は函館では大きなニュースとなりました。
 
扁額の裏には「長州藩はこの扁額ごと神社を焼こうとしたが、岡山藩の水原久雄と杉山厚が道理を尽くせと反対しこれを外に持ち出した後、焼いた。官軍の全勝は扁額をこちらにもたらしたことに起因する(抜粋)」と書かれています。

歴史と威厳を感じる扁額は社殿内のガラスケース内に大切に飾られていて、職員さんに頼めば見学も可能ですよ!
 
 
▲権現台場当時の狛犬です。東照宮にはそこかしこの戦争当時の名残があります

 

降伏式が行われた亀田八幡宮 

五稜郭から南へ徒歩30分ほどにある亀田八幡宮は、現在は初詣などでは函館の定番となっていますが、新政府軍と脱走軍の降伏式が行われた、歴史的に重要な場所なのです。

同八幡宮は社伝によれば明徳元(1390)年に河野加賀守森幸が八幡大神を歓請したのが始まりという古いもの。
 
 
▲亀田八幡宮の第一鳥居は弘化4(1847)年、松前藩最後の箱館奉行・工藤茂五郎が奉納したもの
 
 
新政府軍は明治2年5月16日の千代ケ岡陣屋の戦闘(中島三郎助父子が戦士)後、五稜郭に使者を送り「万国海律全書」の返礼として酒5樽、そして弁天岬台場の降伏、千代ケ岡陣屋の攻略を伝え、五稜郭総攻撃も通知します。

榎本武揚は戦争の責任を背負い切腹を図りますが止められます。その後、合議の末、降伏を決断。翌17日朝、榎本と松平太郎(会談直前に大鳥圭介、荒井郁之助も参加)は亀田の斥候所へ出頭します。
 
 
▲降伏式が行われた当時のまま残る旧社殿。現在は神輿殿となっています。石碑の揮毫は榎本武揚の曾孫です
 
 
亀田八幡宮(旧社殿)裏手の会見場で新政府軍の海軍参謀・増田虎之助、陸軍参謀・黒田了介(清隆)と会談。榎本達は4人の悔悟服罪とその他の兵士、軍属に対する寛大な措置を嘆願します。
 
 
▲亀田八幡宮で降伏式に臨む薩摩藩と見られる写真。右端の人物は開拓使麦酒醸造所創設者の村橋久成とのこと(市立函館博物館)

 
これに対し増田と黒田は謝罪降伏の実行箇条を要求。その日の夜までに松平が兵士の出郭や五稜郭明け渡しの詳細をまとめ提出。翌18日に実行され、箱館戦争が終結となるのです。

この時、降伏式の時、榎本と黒田は冷酒を献杯したという話も残っています。
 
降伏式前までは八幡宮周辺でも戦闘が行われるただならぬ状況だったようで、旧社殿裏側には弾痕が残っています。
 

▲旧社殿の裏側。歴史を感じさせますね。


▲戦争時の弾痕と見られる穴。複数箇所に残っています
 
 
この場所が日本近代化の歴史的転換点となったということを知る方は少ないでしょう。お参りも出来ますので訪れやすい場所ですよ。
 
 

新政府軍兵士が眠る護国神社

函館山山麓の代表的な坂のひとつ、護国神社坂の坂上に、大きな赤い鳥居が目に入ります。それが護国神社です。
 
箱館戦争終了後、明治2年、箱館戦争で戦死した新政府軍兵士を祀るために招魂社として創建され、昭和14(1939)年、函館護国神社と改称します。

神社右手に新政府軍の戦死者が弔われています。
 
 
▲晴れていれば神社から見下ろす大森海岸や函館の街並みもなかなかのもの


▲広い境内は参拝者の憩いの場にもなっています。
 
 
▲新政府軍兵士の墓は神社右奥にあります。墓石も70体以上はあるでしょうか。墓碑銘を見ると全国各地から参戦していたことがわかります
 

ここは図らずも勝者と敗者の非情なコントラストを映し出す場所です。戦争後、手厚く葬られた新政府軍に比べ、脱走軍の遺体は新政府の厳命で野ざらしにされました。

神社近くの函館山山中にある脱走軍の慰霊塔・碧血碑(へっけつひ)は人目を避けるような場所にあり、しばらくは地図にも載りませんでした。同じ日本人同士で戦ったことによる悲しい現実といえるでしょう。
 
新政府軍にせよ脱走軍にせよ、彼らの犠牲のもとに近代日本が成り立っていることを忘れてはいけないのでは?とお墓に手を合わせながら考えました。
 
今回紹介したスポットはあまり知られてはいないものの、箱館戦争で重要な役割を果たしたものも多く、歴史好き、幕末好きの方にはロマンを十分に感じてもらえるはずです!

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