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公開 | 木村健太郎

知っていますか?函館の町名にもなった幕末の義士・中島三郎助

日本の命運を決める箱館戦争の舞台となった函館。新政府軍には後の北海道開拓使長官となった黒田清隆、旧幕府脱走軍は榎本武揚、新撰組の土方歳三など、そうそうたる人物が関わっています。

その陰で、函館の町名にもなり今も町民に愛される人物がいることを知っていますか?その名は中島三郎助(さぶろうすけ)。箱館の地で壮烈な死を遂げた幕末の義士を紹介します。
 
 
▲箱館の地で散った中島三郎助。精悍で抜け目のない表情が印象的です(函館市立中央図書館提供)

 

目次

・千代ヶ岡陣屋で父子ともども戦死
・町名となった理由は?
・最初に黒船に乗り込んだ?三郎助はどんな人物?
・幕府への忠義を貫いた「ラスト・サムライ」
・市民の台所「中島廉売」にいってみよう!


 

千代ヶ岡台場で父子ともども戦死

明治2(1869)年5月11日から新政府軍は箱館総攻撃を開始。五稜郭を中心に蝦夷政権を樹立した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍に対し、物量、質量で圧倒的に上回る新政府軍が弁天岬台場を初めとする脱走軍の陣地を次々と落とし箱館は陥落。五稜郭に迫ります。

五稜郭から南へ1.2㎞ほど下った前線基地・千代ヶ岡陣屋を守っていた隊長が、蝦夷政権の箱館奉行並・中島三郎助でした。
 
 
▲現在はスポーツ公園(千代台公園)の千代ヶ岡陣屋跡。元は津軽藩の陣屋でしたが明治元(1868)年から脱走軍が兵を配置しています。
 
 
五稜郭の榎本たちがすでに降伏もしくは自刃を覚悟していた5月16日、新政府軍が千代ヶ岡陣屋への攻撃を開始。それ以前から、新政府軍の黒田清隆らは、中島の能力を高く評価しており、脱走軍付の医師・髙松凌雲(日本初の赤十字精神を体現)を通じて、再三の降伏勧告を行っていました。
 
 
▲左から三郎助の長男・恒太郎、次男・英次郎(函館市中央図書館提供)
 
 
しかし、中島は断固として降伏を拒否します。新政府軍の攻撃に対し浦賀奉行時代からの仲間らと奮戦しますが弾薬も尽き、最後は白刃をふるって戦い壮絶な戦死(享年49歳)を遂げます。

三郎助に従ってきた長男・恒太郎(享年22歳)、二男・英次郎(享年19歳)も若い命を散らします。3人の遺体はみつかっていません。
 
死を覚悟していた三郎助は「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」と辞世の句を残しています。
 
 

町名となった理由は?

 賊軍として扱われた旧脱走軍ですが、腫れもののような存在だった明治初期から時が過ぎ、同後期ごろから名誉回復が行われます。

明治2(1869)年5月18日に降伏後、榎本武揚など新政府に重用された人物もいる中、最後まで徳川への義を貫いた三郎助父子を、陣屋周辺住民が悼んだのでしょう。昭和6(1931)年に中島町と名付けられました。
 
 
▲交通量の多い高砂通り沿いにひっそりと慰霊碑が建てられています。父子の写真とともに花やお酒が供えられていました
 
 
昭和49(1974)年、殉職地には「中島三郎助父子最後乃地」と揮毫された石碑が建てられました。目立たない中央分離帯の広場にあるのですが、町民によって綺麗に整備されています。
 
毎年5月中旬の「箱館五稜郭祭」では、同碑を皮切りに志士を弔う碑前際が行われます。
 
 
▲5月に咲く最後の地碑のクロフネツツジ。黒船へ最初に乗り5月の函館で戦死した中島との因縁?も感じます
 
 
ちなみに、函館には榎本武揚にちなんだ榎本町、梁川(やながわ)町、明治以降の函館近代化に貢献し「函館の父」と呼ばれた、薩摩藩の時任為朝(ときとうためとも)にちなんだ時任町があります。

 

最初に黒船に乗り込んだ?三郎助はどんな人物?

三郎助は文政4(1821)年に誕生。中島家は代々、浦賀奉行所(神奈川県)の与力を務め、8代目となります。
 
時代の表舞台に立ったのは、嘉永6(1853)年、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航した時です。浦賀副奉行として同艦隊の旗艦「サスケハナ」に単身乗り込み、江戸寄港と将軍への謁見を求めるペリー側とそれを拒否する三郎助と丁々発止のやり取りがあったと言われています。
 
このような経験から日本も近代的な軍艦が必要と考えていた三郎助は、幕府の長崎海軍伝習所の一期生として造船、操船術を学び、近代造船学の指導者としても活躍します。榎本は二期生で後輩にあたります。
 
海軍伝習所から浦賀に帰った後、自ら鳳凰丸という日本初の洋式軍艦も建造しました。また軍事だけでなく、俳句や和歌にも造詣が深く、俳人としていくつもの句を残しています。なんと福沢諭吉や長州の桂小五郎と交流が深かったとか。
 
これだけでも優秀な役人であり傑物だったことが分かりますね!
 
 
▲函館の土に還った中島父子は今、何を思う?道路に囲まれて、激烈な戦闘の名残はまったくありません
 
 

幕府への忠誠を貫いた「ラスト・サムライ」

 明治元(1868)年4月、新政府軍に渡った旧幕府軍の艦船を奪還し、品川沖から脱走した榎本とともに箱館に向かった三郎助。旧幕府脱走軍では当時の日本最新鋭の軍艦「開陽丸」の機関長となりました。
 
 
▲道南・江差町(桧山郡江差町)の海に佇む復元された開陽丸です。脱走軍の命運を握っていた船でした
 
 
しかし、脱走軍の切り札だった開陽丸は明治元(1868)年11月15日に江差沖で暴風雪により座礁、10日後に沈没します。開陽丸が沈み、榎本や土方のショックは計り知れなかったとか。もちろん、操舵していた三郎助も同様だったと想像できますね!
 
これは三郎助の責任もあるかも知れませんが、北海道の冬の気候(陰暦11月なので現在の12月後半)を見誤ったこと、物資の積み過ぎが原因だったとも言われています。
 
翌明治2(1869)年4月9日、新政府軍が現乙部(おとべ)町に上陸。三郎助はこの時点で負け戦を覚悟していたのかもしれません。同月に浦賀の妻に別れの手紙も送っています。恒太郎・英次郎兄弟も浦賀に帰そうとしましたが、それを拒否。父と殉じる道を選びました。
 
生きていれば明治政府でも活躍していたでしょう。しかし、死を持って徳川家への忠誠を昇華した人生は「ラスト・サムライ」と言えるのでは?そこが、中島町民に愛される理由なのかも知れませんね!

 

市民の台所「中島廉売」に行ってみよう!

 中島町自体は、住宅街で観光地とは言えません。しかし、市民に古くから愛された「中島廉売(れんばい)」という市場があるのでオススメです! 

三郎助父子の碑からは徒歩10分ぐらい南東へ歩きます。市電からは堀川町電停下車、徒歩3分ほどの場所にあります。
 
 
▲約300mの道路沿いに80件以上の店舗や露店が並びます。
 
 
廉売の歴史は昭和9(1934)年まで遡ります。同年3月21日の函館大火で旧市場が壊滅。被害の少なかった中島町の大通に数多くの店舗が移転してきたのが始まりです。
 
以来、戦中戦後の食糧難を支え、食糧、衣料、日用品、雑貨などあらゆる商品を安価で提供し、「市民の台所」として親しまれてきました。
 
 

▲昭和40年代の中島廉売の写真。大変なにぎわいだったことが分かりますね(中島れんばいふれあいセンター提供)
 
 
ただ、現在は大型スーパーに囲まれ、かつての賑わいと比較して少々、寂しい印象です。それでも、少なくともスーパーよりは安価で新鮮なものを提供していることは行けばわかりますよ!
 
 
▲メイン通りを1本横に入ると、歴史の古さを感じさせる裏路地も味わい深いです
 
 
函館といえば海鮮でしょう。函館近海中心に新鮮なネタを使い、びっくりするぐらい安価で提供してくれる立ち食い寿司店「シゲちゃん寿司」。市民だけではなく口コミで観光客の方にも人気が広まりました。
 
 
▲ランチの時間帯になると行列ができるシゲちゃん寿司。持ち帰りも受け付けています!お隣は市民に人気の老舗・堂守豆腐店です
 
 
寿司職人の宗山滋さんが平成3(1991)年に開店。自ら市場や廉売の鮮魚店で目利きしたネタを提供してくれます。ランチは15貫1350円からという、回転寿司も顔負けの超リーズナブルなお値段!
 
 
▲最安80円からという、回転寿司より安いお値段で、美味しい寿司が食べられる!
 
 
熟練の手さばきで寿司を握り、次々とお寿司をカウンターに置いていきます。味もお腹も大満足間違いなし!と自信を持って言えます。ぜひ味わってほしいです!
 
 
▲名物のタコ頭炙りの握りです。これは美味!北海道のタコは水ダコで柔かく、特に頭部が珍重されています
 
 
鮮魚店の老舗として人気なのは創業80年を超える「紺地(こんち)鮮魚」です。地方発送も受け付けていますよ!
 
 
▲紺地さんは新鮮な函館近海の鮮魚を安価で提供してくれます
 

市民のみならず、飲食店の目利きにも厚い信頼を置かれている同店。函館のシンボルである真イカも当然置かれています。店頭で選んだ魚をお造りにもしてくれますよ。
 
 
▲この日はシケで真イカは少な目でした。温暖化により函館近海で獲れる魚も変化してきているとか
 
 
ただ、ここ数年、函館のイカは記録的不漁に悩まされています。今年も例外ではありません。様々な原因が語られますが、第一に挙げられるのが、海水温上昇でイカが岸に寄ってこないこと。

船も遠くの沖まで出るのですが、活イカにするような大きなイカは漁港に運ぶまでに死んでしまうのだとか。
 
「(夏場の)漁港の海水温でも20℃ぐらいある。津軽海峡なら30℃ぐらいかもしれません」と紺地慶一社長は話します。
 
当然、お値段も函館出身の筆者が知る時代と比較して数倍にもなっています。函館とイカは切っても切り離せないもの。鮮度はもちろん、漁師さんの処理が旨いので、他地域と比べても別格の美味しさだと思っています。何とか戻ってきて欲しいですが…。
 
 
▲函館名物のいかめし。紺地さんのものはバター風味という珍しいもの
 
 
▲何種類もの自家製塩辛を売っているのも函館らしいですね!観光客の方にも人気だとか
 
 
三郎助が戦死した毎年5月中旬には商店街を挙げて盛り上げる「中島三郎助まつり」が行われるなど、今でも三郎助は愛されていることが伝わってきます。
 
幕末好きの方はもちろん、五稜郭公園に行かれた方はちょっと慰霊碑まで足を伸ばしてみて下さい。そして、函館の新鮮な海鮮や生鮮などを安価で堪能したい方、中島廉売には良い物が揃っていますよ!
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