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公開 | 木村健太郎

深掘り!五稜郭公園-知りたかった、知らなかった五稜郭あれこれ

戊辰戦争最後の戦い、箱館戦争の舞台となった函館市の五稜郭公園。今や函館屈指の観光や花見スポット、そして市民公園として親しまれています。

激動の幕末に誕生し、数奇な運命をたどった五稜郭とそれに関わった人々。今回は五稜郭を訪れる方々により深みを持っていただける同公園の歴史にまつわる情報をお届けします!
 
 
▲冬期間はライトアップされる五稜郭公園。幻想的な美しさです
 
 

目次

・なぜ星形の城にしたのか?なぜこの地に建造?日本式の城と比べてのメリットは?
・五稜郭は未完成のままだった?本当は“十稜郭”だった?
・日本に一瞬だけ2つの国が?「蝦夷政権」の誕生
・蝦夷政権はどのように箱館を統治したのか?
・土方歳三は五稜郭に眠る?埋蔵伝説の場所は?
・北海道屈指の桜の名所となった経緯


 

なぜ星形にしたのか?なぜこの地に建造?西洋式のメリットは?

 箱館戦争は明治2(1869)年の陰暦5月18日(現6月下旬ごろ)に終結。新政府が蝦夷地を北海道と名づけたのは同年8月。今年は北海道命名150年となりますが、箱館戦争終結150年ともなります。その舞台となったのが五稜郭でした。
 
五稜郭は安政4(1857)年に着工。当初は江戸幕府の北方警備と、嘉永6(1853)年に来航したペリーの外国船など、外敵に対する防備の中心地として、蘭学者の武田斐三郎(あやさぶろう)が設計しました。

17世紀のフランスをはじめとする欧州の城郭を模倣した美しい五稜(星形)の城が完成したのは元治元(1864)年でした。同じ五稜郭形の城郭としては龍岡城(長野県佐久市)があります。
 
 
▲昭和30年代の空から見た五稜郭です。見事な星形の城となっていますね!(函館市中央図書館提供)
 
 
五稜郭は函館湾から北東へ約3㎞の内陸部にあります。当時は亀田村でした。これは、外国船の大砲の射程距離外でありかつ、周囲は原野だったためです。
 
なぜ、このような西洋式の星形にしたのか?実は、これにはあまり意味がなく、日本にも西洋式の城を築く技術があることを、アジア諸国を次々に植民地化していた欧米列強に見せつけたかったようです。

 

五稜郭は未完成?本当は“十稜郭”だった?

 五稜郭は隣接する五稜郭タワーから見下ろすと半月堡(外堀陣地)が正門前のひとつしかないことが分かります。
 
 
▲正門前にある半月堡。石垣の上に大砲などを運ぶ道ができているのが分かりますか?
 
 
建設当初の設計図を観ると、五陵形の内郭部分にすべて半月堡を築く計画だったのです。半月堡は防御と出撃のための重要な拠点となりますから、全方位に強力な防備ができたはずです。
 

▲初期の計画図です。すべての内郭に半月堡がありますね(函館市中央図書館提供)
 
 
しかし、最終的な設計図は現在の形となっています。なぜこのように変化したのか?ひとつは単純に、幕府の資金不足にあります。武田斐三郎の計画では熔鉱炉も造り、大砲などを自主生産する目論見もありましたが実現しませんでした。
 
 
▲最終設計図では現在の形となったことがわかりますね
 

もうひとつは、箱館港が開港したことです。外国船は外敵との認識でしたが、安政5(1858)年、日米修好通商条約が締結され、翌安政6(1859)年に横浜、長崎とともに開港。箱館の街に外国人が出歩き、各国領事館も建てられました。


▲函館山から見下ろした函館湾。天然の良港として世界に開港されました。赤枠が五稜郭の場所です。 


箱館行政府や地元民にとって欧州列強の人々が、侵略者から交易相手となり、五稜郭も防備を手厚くする必要がなくなります。

元治元(1864)年に五稜郭が完成し、箱館奉行所が開庁。函館山山麓にあった元の奉行所は支所のような形となりました。五稜郭は防備を司るのではなく、行政府となったのです。
 
明治元(1868)年10月26日、旧幕府脱走軍の大鳥圭介が無人状態となった五稜郭に入城し、設備を調べたところ、防備や攻撃に適したものではなかったことから、新政府軍が攻めてくる前に、郭内を改造したという話も残っています。

 

日本に2つの政権が!「蝦夷政権」はどう誕生した?

 旧幕府脱走軍は五稜郭、箱館を制圧後、知内や松前、館城(現厚沢部町)などの戦闘を経て11月15日に松前藩を倒し蝦夷地を事実上の支配下に置きました。
 
 
▲箱館戦争降伏後は新政府に重用された旧幕府脱走軍の指揮官・榎本武揚。蝦夷地に徳川家と家臣団の安寧の地を築こうとしました(函館市中央図書館提供)
 
 
12月15日、当時の日本では画期的な選挙(入れ札)を旧幕府脱走軍の士官以上で開き、脱走軍指揮官だった榎本武揚が「蝦夷島総裁」に就任しました。以下は選挙の票数の内訳です。
 
(総括的選挙)
榎本釡次郎(武揚)156 松平太郎120 永井玄藩(げんば)116 大鳥圭介86
松岡四郎次郎82 土方歳三72 松平越中55 春日左衛門38(以下略)
 
(総裁選挙)
榎本武揚155 松平太郎14 永井玄藩4 大鳥圭介1
 
(副総裁選挙)
松平太郎126 榎本武揚18 大鳥圭介7 永井玄藩5 荒井郁之助4 土方歳三2
柴誠一1

 
そのほか、陸軍奉行、海軍奉行、箱館奉行の選挙も行われています。
 
 
▲箱館に誕生した「蝦夷政権」の面々(函館市中央図書館提供)
 
 
榎本は箱館の各国領事らに「任命はユニバーサルな投票法によって選挙されます。これは天皇陛下に依頼した、徳川のプリンス(将軍)到着までの堅固な仮行政組織です。我々は蝦夷全島を事実上我々の占有としたことを、厳かに宣言しようと思います」(函館市史通説編第二巻から引用)との旨を通達。日本に2つの政権が誕生した瞬間でした。
 
 
この日は脱走軍軍艦の回天、蟠龍、千代田形丸、そして弁天台場から101発の祝砲が撃たれました。
 
 
▲幕府の行政府でもあり、蝦夷政権の執政の中心となった箱館奉行所。明治4(1871)年に解体され、平成22(2010)年に復元されました。
 
 
榎本は鷲ノ木(現森町)上陸後、仮政権を樹立するための対外政策に余念がありませんでした。箱館在留の各国領事にフランス語で書かれた声明書を隠密裏に送っています。
 
蝦夷を徳川家の領地とし、「徳川の勇者たちは刀を捨て、農民や商人になる恥辱を認めることはできない(以下略)」旨を説明、諸外国に局外中立の継続と、交戦団体として待遇されることを要望しています。


▲こちらも蝦夷政権の面々。幕府の中でも指折りの役人が揃い、箱館奉行の永井玄藩(右上)は幕府の若年寄で大政奉還では上表文を書いています(函館市中央図書館提供)
 
 
榎本の根回しで、英仏は交戦団体として待遇しないが、日本の内紛には中立ではなく不干渉の立場を取り、米国やロシアは榎本の主張をすべて認めました。
 
しかし、蝦夷政権樹立後のわずか3日後の12月18日、各国は不干渉、中立を撤廃。新政府に肩入れすることになります。その後の蝦夷政権は時代の波に押し流され、悲運の道をたどるのです。

 

蝦夷政権は箱館をどう統治したのか?

 榎本が蝦夷地に目を向けたのは、江戸幕府は蝦夷地の一部を松前藩に統治させ、末期は東北諸藩に蝦夷地の各所を警備させていたものの、そのほとんどが未開地。
 
大政奉還後は駿府(現在の静岡県)の一大名となった徳川家や家臣団を救うために、蝦夷地を領有、開拓し、徳川の地を築きたかったのです。
 
壮大な夢を持って、開明的な選挙を経て誕生した蝦夷政権ですが、内情は慢性的な軍資金不足に悩まされていました。
 
そのため、商人から1万両を借り受けたり、博打場や神社の祭りでも物売りや見世物小屋から運上金を接収。また箱館の町端に一本木関門を設け、通行人には通行税を徴収していました。

何もかにも税金をかけられ、食糧も調達され、地元民にとっては、大人しくしていればスムーズに新政府に移行できたはずなので、「招かれざる客」だったようです。

 

土方歳三は五稜郭に眠る?埋蔵伝説の場所は?

 箱館戦争の主役のひとり、新撰組副長・土方歳三。幕末好きや新撰組ファンに圧倒的な人気を誇ります。
 
 
▲蝦夷政権では陸軍奉行並だった土方歳三。倒れた場所、埋葬場所はいまだに謎に包まれています(函館市中央図書館提供)
 
 
土方は新政府軍の箱館総攻撃が始まり、孤立した弁天岬台場を援護するため明治2(1869)年5月11日に五稜郭から出陣。その途中、馬上で新政府軍の銃弾に当たり、戦死しました。その場所は、一本木関門(現函館市若松町)付近、もしくは異国橋(現十字街電停付近)と言われます。


▲土方が戦死したと言われる十字街(函館市末広町)。異国橋は信号ひとつ分函館駅よりのセブンイレブンと交番のある交差点あたりです
 
 
土方は函館のどこに埋まっているのか?これはいまだに謎で、願乗寺説、碧血碑説などありますが、遺体を従卒の兵士が五稜郭に運び去って埋葬した説も残っています。
 
しかし、現実となると、新政府軍の最新兵器による猛烈な砲撃を受け混乱した戦場の中、遺体の損傷が激しくそのまま灰燼に帰したのでは、という専門家の意見もあります。
 
実際に、土方だけではなく数多くの脱走軍の遺体はみつかっていません。五稜郭に持ち帰ったとしてもその場で首を切って御首(みしるし)だけ運んだ可能性が高いとのこと。
 
箱館の3分の1が焼けたという戦闘だったので現実味はありますね、残念ながら。
 
それでも、五稜郭説には根拠があります。明治11(1878)年、五稜郭の土塁修理のため掘り返した時、数多くの遺体がみつかっています。明治16(1883)年の函館新聞には遺体は願乗寺に改葬され、後、別の場所に改葬されているとあり、その改葬場所は分かっていません。
 
雑誌「旧幕府」に掲載された明治32(1899)年の「旧幕府史談会」で「伊庭八郎君の遺体は五稜郭の土方歳三の傍に眠っている」との証言があり、今でも信ぴょう性が高いと言われています。伊庭八郎は箱館戦争で戦死した新撰組隊士で、コアな人気があるんですよ!
 
その場所は現箱館奉行所西側奥になります。
 
 
▲赤枠が伊庭八郎が埋葬されているという場所です。すぐ傍に土方が眠っているのか?正門から入ると歩いて数分の場所です
 
 
一本松が植えられているこんもり盛り上がった土饅頭がそれです。観光客で賑わう場所のほんの奥なのですが、ひときわ静寂感が漂っています。
 
 
▲一本松の根が張っている場所です。大正時代、伊庭の埋葬地はここと特定されましたが、掘ったところ空だったとか
 
 
この付近も土方埋葬の可能性は低いかもしれませんが、今でも花束などを手向ける方もいます。筆者としても土方が五稜郭のどこか土深くに眠っている可能性を否定できませんし、したくはありません。それが歴史ロマンであり、想像の旅にも出られると思いませんか?

 

北海道屈指の桜の名所になった経緯

 五稜郭公園は現在、北海道有数のお花見スポットとして有名です。花見の時期にはソメイヨシノを中心に約1600本もの桜が咲き誇ります。
 
 
▲お花見の時期は星形に桜が咲き、五稜郭タワーから見ても壮観です
 
 
五稜郭は箱館戦争後、明治政府兵部省が管理し、明治4(1872)年に箱館奉行所は解体。翌6(1873)年からは陸軍省管轄となり、練兵場として使用されていました。大正2(1913)年に函館に無償貸与され、翌3(1914)年から市民公園として利用されることになりました。
 
 
▲桜が咲き乱れる夕闇の五稜郭公園。タワーとのコントラストが美しいですね
 
 
桜は公園として開放したばかりの五稜郭に、「函館毎日新聞」が1万号発行記念として桜を寄贈しました。大正4(1915)年から12(1923)年まで植樹されています。
 
現在の桜は当時のままではなく植え直されたもので、毎年美しい花を咲かせるべく、管理事務所により丁寧に手入れがされています。

  
日本のほかの城よりは歴史は新しいですが、激動の幕末にほんろうされ、数奇な運命をたどった五稜郭。お花見や散策をしながら、歴史にも目を向けると、五稜郭をより深く楽しめますよ!
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