天塩川に、松浦武四郎「北海道命名之地」を訪ねて

道北・音威子府(おといねっぷ)村に、北海道の聖地ともいえる「北海道命名之地」があります。名付け親は、幕末の探検家・松浦武四郎。6回にわたって蝦夷地を調査し、地図や地名、人々の暮らしを江戸に伝えた人物です。幕末の北海道を想像しながら、松浦武四郎が旅した足跡をたどりました。
 
 

アイヌ語が由来だった「北海道」

旭川から北へ120㎞のところにある音威子府村。天塩川沿いに建てられた「北海道命名之地」を訪れました。
 
 
 
 
林道を通り天塩川の川辺に出ると、碑と説明看板を発見!
 
 
 
 
 
 
豊かな自然に囲まれた天塩川は、武四郎が踏査した当時を彷彿とさせる雰囲気が漂っています。
看板の説明によると、松浦武四郎は1857(安政4)年に、天塩川河口から源流部付近を24日間かけて調査。その途中、アイヌコタン長老アエトモから、「北海道」命名のきっかけとなる話を聞きます。
 
「この地に生まれた者を『カイ』と呼ぶ」
 
1869(明治2)年、政府から蝦夷地開拓御用係に任命された武四郎は、蝦夷地にかわる新たな名称「北加伊道」を政府に提示。後に「加伊」が「海」となり、「北海道」の名が誕生したとされています。
 
 

松浦武四郎の人物像と「北海道」への思い

 
 
松浦武四郎は、1818(文政元)年に伊勢国須川村(現在の三重県松阪市小野江町)に生まれ、17歳から10年間で日本各地をまわります。武四郎は、26歳の時にロシアが蝦夷地支配を狙っているということを耳にし、当時まだあまり知られていなかった、蝦夷地の様子を人々に知らせようと調査を決意したそうです。
 
蝦夷地の調査は、28歳から41歳までの間に6回行われ、地形、地名、自然の様子などを詳細に記録した内容は、151冊の日誌にまとめられました。
調査で案内をしてくれたアイヌの人々とも交流を深めていきます。アイヌ語を学び、人々の暮らしも詳細に記録した武四郎。後年発行される日誌は、現在も当時の北海道(蝦夷地)を伝える貴重な資料として残っています。
 
アイヌの人々と交流を深める中で、武四郎は、当時和人に抑圧されていたアイヌの人々が「この地で安心して暮らしていけるようにしたい」という思いを強くしていきます。
蝦夷地の名称を考案する際に、「カイ(=この地に生まれた者)」を取り入れ「北加伊道」としたのは、アイヌ文化を大事にした武四郎の思いが込められているのですね。
国名(石狩、後志などの支庁名)、86の郡名も、武四郎がアイヌ語にちなんで撰定しています。北海道にアイヌ語由来の地名が多く残っているのは、武四郎の働きによるものでした。
 
 

天塩川流域に残る、松浦武四郎踏査の足跡

北海道に大きな功績を残した松浦武四郎。彼の魅力をさらに知るべく、天塩川流域にある名寄市北国博物館を訪れました。
 
 
 
 
専門指導員を務める鈴木邦輝さんは、40年ほど武四郎について研究しており、調査記録の現代語訳にも取り組んでいます。今回の取材にあたって、武四郎が遺した貴重な歴史資料の一部を見せていただきました。
 
 
 
 
『天塩日誌』は、1862(文久2)年、北海道の様子を知ってもらうために分かりやすくまとめて、武四郎自身で出版したもの。自筆の絵が描かれており、今から160年ほど前の天塩川流域の様子が詳しく紹介されています。
 
 
 
 
鈴木さんに、武四郎の魅力について聞いてみました。
「アイヌの人たちに先入観なく接しながら、見聞きしたことを詳細に記録しています。武四郎さんが残したかったもの、当時の日本人に伝えたかったことは、自然と一体となって暮らす北海道の人々の精神だと思います」
 
蝦夷地調査から150年以上経った今、武四郎が伝えたかった精神は、現在の私たちにも訴えかけているような気がします。
 
天塩川流域の河口から源流部付近には、松浦武四郎ゆかりの記念碑や案内看板が12ヶ所ほど建てられています。
 
 
 
 
 
 
名付け親である松浦武四郎が愛した北海道。天塩川流域では、武四郎が訪れた当時の面影を、現在も感じることができます。「北海道命名之地」を訪ねて、歴史探索に出かけてみてはいかがでしょうか。
 
 

関連リンク

・音威子府村役場
名寄市北国博物館